自分が望んでいる状態にいる人や望んでいても手に入らないものを持っている人に対して、羨ましいと感じるのは、とても自然なことですよね。
かくいうわたしも
いろいろと「羨ましいなぁ」と感じることはあるのです。
この気持ちはあたりまえだと思うし、気楽に羨ましがったりします。
気楽に羨ましがるってどういうことかというと、羨ましい気持ちに捉われないということです。
羨ましい気持ちに捉われると「どうして自分は・・」と辛くなってしまいますが
捉われないので、さほどでもない。
単純に「羨ましいなぁ」で済むんですね。
では、なぜ「羨ましい」に捉われずにいられるかというと、羨ましいのは一部だけだからです。
ある人のある部分が羨ましい。それだけのことなんです。
だったら、その人になりたいのかというと、そうでもなかったりする。
その人になるというのは
その人が抱えている様々なことも引き受けるということだったり
その人の感覚で生きるということだったりするわけで
それはそれで、ちょっと・・・となってしまう。
簡単な例で言うと
わたしは花粉症ではない人が羨ましかったりしますが、だったら、その人になりたいかというと、それはちょっと・・・ってなりますね。
羨ましいと感じる部分が自分自身の痛みや辛さに触れる部分だと、それが全てのような錯覚を起こしてしまいがちですけれど、やはりそれは一部に過ぎません。
たとえば
わたしは犯罪被害とは無縁な人は羨ましかったりしますが
だったら、その人になりたいか、その人の全てを引き受けたいか、その人の感覚で生きたいかというと
やはり、それはちょっと・・・ってなります。
どんな感覚なのか興味はありますけれどね。
ね?どんな「羨ましい」も一部でしょう?
だったら
単純に気楽に、その部分が「羨ましいなぁ」でいいのです。
一部だけだけれど、羨ましいと感じる自分を認めてしまえば
そんな自分も微笑ましいですからね。